退屈と同棲している

幸せとは、一瞬のスパーク。

例えば、結婚や就職、難関試験の合格、最高のセックス。

その瞬間。一瞬のショットでの1コマで感じる、ちょっとしたドーピング。瞬間的な快楽に過ぎない。

それに引き換え、日常はなんと退屈で満ち溢れていることか。

毎日、我々は退屈と同棲している。

退屈と枕をともにして、退屈と一緒に歩き、退屈と一緒に飯を喰らう。

退屈が無限につきまとい、あまりの退屈に耐えきれなくなって、みんな幸せを求めている。それが一瞬の快楽に過ぎず、依存性が高いことに気づいていても、幸せドラッグをぶち込みたい。やめられない。

瞬間的な幸せはドラッグなので、耐性がついてくる。

つまり、常用するにつれて処方量に見合ったトリップが得られにくくなる。

昔は、あれもこれもこんなにあれば十分幸せと感じていたのに、いざ手に入るともっと欲しくなる。足りない。全然、足りない。幸せ。ギブミー幸せ。

「いまあるものを見直して、小さな幸せを感じられるように」

「あなたはすでに満たされています」

ミニマリストや精神世界の民なんかは、こう囁く。
悪魔のごとく。

そんなのは欺瞞であること、実はみんな知っている。
理屈じゃあねんだよ。

欲望は抑えれば、抑えるほどに活気づき、自らに足りていない幸せに目が向くように。幸せクダサイ。幸せクダサイ。

そうなると、儲かるのはいつだってドラッグ・ディーラー。

世界を救うはずだったインターネットが魔改造された現代では、SNSを通して身近(っぽく見える)な人達の幸せ度合いが可視化され、日常に流れ込んでくる。無限に続くスクロールで。

幸せの売人は叫ぶ。

「〇〇さえできればより幸せに!」

「通常の幸せのX倍!」

幸せマーケットはいよいよ盛況で、世界中を席巻している。

ちょっと待ってくれ。

退屈は?

退屈のこと、忘れてない?

幸せの注射針を打つ間に、幸せの錠剤を多量に打ち込む隣で、

じっとこちらの様子を伺っている退屈は。退屈のことは。

人はどれだけ幸せに溺れようとも、暮らしの大半を退屈と共にしている。

それは「すでに満たされている」とか「小さな幸せに気づきましょう」とかいう欺瞞ではなく、退屈そのものと付き合う覚悟、とでもいうのか。退屈を退屈として一緒にいること、ネガもポジもなく、退屈を感じていること。

安易に幸せの売人に連絡を取らず、じっと立ち止まって退屈を味わう感じ。

「あああ、退屈だな。」というあの感じ。

ドーパミンもアドレナリンもセロトニンも、さようなら。

「やること、一個もない」という境地。

一旦そこに立ち返ること。

まあそうはいっても忙しく日々を過ごされている皆さんのこと。そういうのは、なかなか難しいかもしれないが、たとえば1週間のうちに退屈といちゃつく時間があること。退屈に構ってあげられる時間があることが、実は幸せドラッグの中毒症状から離脱できる一番の解脱ポイントなんだよ。

風呂行ってくる。

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怒れる人たち

怒りと恐れについて 怒りをエネルギーとして何かを成し遂げるというのはあると思うが、大抵の場合、怒りというのは瞬発的な感情であって、怒り単体であればそこまで長続きしないのではないだろうか。怒りの発生を紐解けば、純粋に怒りという感情がゼロから産まれることは少ない、というかほとんどなく、何か別の感情に対しての反応的感情として怒りは産まれる。その代表的な産みの親はやはり恐れであろう。 恐れから産まれる怒りによって、怒りの感情は長続きするように錯覚する。その実それは、怒りではなく、裏側でくすぶっている恐れの感情である。恨み、つらみ、妬み、嫉み、僻み。こういった負の、マイナスのフィーリング。生き物としての「私を傷つけるな」という強い生存的な防御欲求、そういうものが怒りには込められている。とはいえ、怒りを日常的にあらわにしている人はそれだけでアンガーマネジメントができていないといわれ、人として評価されない現代社会。怒りの感情は長続きしないので、イラッとしたら6秒待ちましょう。などとほざく人たちもいるけれど、ぼおっと6秒も待っている間に苛立ちはブースト。殺意にまで発展する可能性もある。怒りに対処

地に足をつけて浮世ばなれ。

山へ引きこもらず、海辺に小屋を建てず 街の中で、俗に浸かりながら、浮世を離れる。 親しげに近隣住民と社交をしながらも、世間からは身を置く。 一般的な、世間的な、ことから、意識的に距離をとりつつ、自分の設計に応じた道を犀の角ののようにただ一人歩む。それでも、ひとりぼっちは寂しいから、友だちを作り、一緒に飯を食ったり酒を飲んだりする。ひとりで歩む道の傍らには草木が生えているし、別の道を歩む人も見える。死ぬまでの道すがら、たまたま隣接する道路で一緒に歩むこともある。けれど、道はそれぞれ一人分しか用意されていないので、次の曲がり角では別れることだってある。自分の道を歩く。 けれど、わき目も振らずに前だけを一点に見つめて、集中して歩くことはしない。おおいにわき目をする。道すがらの草木にも目をやる。風の移り変わりも感じる。他所の人の道もつぶさに観察する。たまには休み、後ろに戻って、落とし物を探したりもする。雲の上の仙人ではないから、身体は世俗に生きつつも、心は浮世離れしている。浮世とは世間のことであり、世間とは多くの人が歩んでいると思い込んでいる幻の国道のようなものだから。そんなものは幻であ

スマホを眠らせ、思いつきを増やす

100の思いつきのうち、実際に行動できるのは5個くらい。そのうち続けられるのは3つくらい。ものになるのは1つくらい。もちろん運や遺伝的な設計や現在の環境にもよる。 「人生は趣味」をモットーとする、毎日が余生派におすすめするのはやはり、おもしろアンテナを磨き込み受信感度を高めておくこと。一年で300くらい面白そうなモノを思いついていれば、3年くらいで3つくらいは、ものになる趣味が続いている体感。割り戻すとだいたい1年、1つずつという感じだととてもうまくいっている。理想的。 そして思いつきというものは無からは決して産まれないので、その10倍くらいのインプットが必要、インプットといっても、これは本や映画などいわゆるマテリアルからのものだけではなく、新しい人と友達になったり、おしゃべりしたり、知らない町を歩いてみたりというインプットも含まれる、というかそっちのほうが日頃の暮らしの中でインプットとしての割合は大きい。 そしてなぜ、こんなことをする必要があるのかというと、暇だから。 おそらく人生で一番時間的にはハードであろう幼児の子育てをしている現在ですら、やはり暇。まあいまこのときはやっぱ

身体を忘れた生き物

ひっさびさに瞑想をキメた。5分くらいだけど。 喫煙と同じくらいの時間と手軽さで良い感じにリラックス。 なんとなく、うまかったな、今回。グッドトリップというか。 脳すっきりねんじゃー。 本日は終戦記念日。 ノー・ウォー。 ずっと終戦記念日はこの日のままであってほしい。 総合格闘技流トレーニングがかなり効いている。 身体がちゃんと反応して適応し、前回できなかった動きができるようになっているの、素晴らしい。ギター、書道と同じように上達、身体と頭の新回路がメキメキと作られている感じがする。これ、きっと語学も同じなんだろうな。身体的な語学感覚というか。語学神経ともいうべきやつがあるとおもう。音楽神経、運動神経、語学神経みたいな。普段の日常生活では意識的に使用しない身体の動きを脳からの指令で動かすようなシリーズ、俺は語学もどちらかというとこっちな気がしている。発音だとかリスニングだとか。間合いの取り方だとか。座学というよりは知識・理屈を踏まえた上で脳の新回路を形成するプロセス。たぶん絵画神経もありそう。 と、書いていて思ったが、あらゆること、というのは言い過ぎかもしれないけれ