身体を忘れた生き物
ひっさびさに瞑想をキメた。5分くらいだけど。 喫煙と同じくらいの時間と手軽さで良い感じにリラックス。 なんとなく、うまかったな、今回。グッドトリップというか。 脳すっきりねんじゃー。
本日は終戦記念日。 ノー・ウォー。 ずっと終戦記念日はこの日のままであってほしい。
総合格闘技流トレーニングがかなり効いている。
身体がちゃんと反応して適応し、前回できなかった動きができるようになっているの、素晴らしい。ギター、書道と同じように上達、身体と頭の新回路がメキメキと作られている感じがする。これ、きっと語学も同じなんだろうな。身体的な語学感覚というか。語学神経ともいうべきやつがあるとおもう。音楽神経、運動神経、語学神経みたいな。普段の日常生活では意識的に使用しない身体の動きを脳からの指令で動かすようなシリーズ、俺は語学もどちらかというとこっちな気がしている。発音だとかリスニングだとか。間合いの取り方だとか。座学というよりは知識・理屈を踏まえた上で脳の新回路を形成するプロセス。たぶん絵画神経もありそう。
と、書いていて思ったが、あらゆること、というのは言い過ぎかもしれないけれど、多くのこと、たとえば一般的には頭だけのことだとか、心だけのことだとか思われているものに関して、常に身体性が置き去りになっているのではないだろうか。こうして文章を書いている。キーボードで。おそらく日記を万年筆で書くのは2ページが限界だけれど、こうしてキーボードで、読点多めに書くやり方は、おそらく脳の戯言を指に指示して書いている、書いている途中に、書いたものをディスプレイで見て、さらに脳内では音で黙読している、頭の中でリズムが、文のリズムが取れていて、次の文句、フレーズが出てくるという、半ば自動筆記的なスタイルは、学生時代に散々毎日やっていたことがそのまま身体感覚として身体で覚えているようなもの。それは、お勉強ごとと思われてる外国語の習得や数学なんかでも同じなのではないか。身体的、身体の反射や適応として思考している、思考というよりは行為をしてアウトプットを出しているというか。引き出し(レパートリー)があって、それを状況に応じて(素早く外界からの刺激をインプットして)、取捨選択して、行為している。引き出しの数も、定期的な反復練習により脳というより身体として覚えているものであり、実は身体をもっと引き寄せる、自分というチームの中心に呼び、心(精神性・スピリチュアル)や頭(理論・知識・ロジック)と三位一体で生きることなのではないか、すべての上達、ひいては人生の上達のコツというのは。