怒れる人たち
怒りと恐れについて
怒りをエネルギーとして何かを成し遂げるというのはあると思うが、大抵の場合、怒りというのは瞬発的な感情であって、怒り単体であればそこまで長続きしないのではないだろうか。怒りの発生を紐解けば、純粋に怒りという感情がゼロから産まれることは少ない、というかほとんどなく、何か別の感情に対しての反応的感情として怒りは産まれる。その代表的な産みの親はやはり恐れであろう。
恐れから産まれる怒りによって、怒りの感情は長続きするように錯覚する。その実それは、怒りではなく、裏側でくすぶっている恐れの感情である。恨み、つらみ、妬み、嫉み、僻み。こういった負の、マイナスのフィーリング。生き物としての「私を傷つけるな」という強い生存的な防御欲求、そういうものが怒りには込められている。とはいえ、怒りを日常的にあらわにしている人はそれだけでアンガーマネジメントができていないといわれ、人として評価されない現代社会。怒りの感情は長続きしないので、イラッとしたら6秒待ちましょう。などとほざく人たちもいるけれど、ぼおっと6秒も待っている間に苛立ちはブースト。殺意にまで発展する可能性もある。怒りに対処しようと思っても、チベットの高僧、あるいはジェダイマスターのような存在ではない、我々庶民には難しいと思う。怒りはある。恐れもある。だが、自分だけでなく、みんなにそれはある。怒りも恐れも減らすことは難しいが、ここはある程度、環境と認知を変化させていくことで、本当に「ある程度」はコントローラブルになるような実感がある。けれども、ほとんど人間の自然発生的な感情というのはコントロールできないものだと思っていた方がよい。むしろできることは、その怒りの感情を遊ばせること。おお、キレている、キレている、やばいなこのままだとぶん殴りそう、まで行かなくとも、後日関係修復不可能な暴言吐きそうとか、そういうのを宙ぶらりんの怒りを遊ばせてぼっと観察するようにすること。客観視、メタ的な感じといえば近いかもしらん。どこか自分事ではないように、自分の怒りに対しても接する。
酒に酔って暴れたり、人と揉めたりする人には、この遊びがない。酒に酔うことで失われるのは理性ではなく、理性と感情の間の遊びの部分、または行動と理性の間の遊びの部分である。理性がまったく失われば、そもそもヘベレケで他を攻撃することなどできないのだから。※本当に酔うとそもそも立てないし、まともに喋れない。理性はしっかりしているが、感情→理性→行動が直結してしまっている状態。これが一番たちが悪い。例えば己に酔いたいがための要らぬ正義感の発露、嫉妬を拗らせた粘着した絡み、内輪の仲間意識を強めるためだけの虚勢を張った啖呵、など。まれに、というか最近は増えてきているようにも思うけれど、酒に酔わなくても、しらふの状態でこの感情→理性→行動が直結してしまっている人がいて、世間的にはどうもこういう人らのことを魅力的、仕事ができる、成功者の資質と見られている傾向がある。が、こういう人らというのは、質の悪い酔っ払いや、すぐに「オモテニデロヤ」と罵る輩の連中と仕組み的には、大して変わらない。大人。本当の意味でいい大人、そして恐ろしい大人というのは、ヘラヘラ笑いながら「こいつ、どう殺してやろうかな」と心の中で遊んでいる人間のことである。