多趣味か、さもなくば無趣味か

趣味。

生活の彩り、生命の維持に必要なモノ以上の活動。

動物か人間かの分岐点。

否、動物でも「遊び」をすると聞いたことがある。人に親しいチンパンジーなどのお猿はいざ知らず、そういえば犬も猫も生命の維持とは無関係そうな余剰で遊んでいる。あれは趣味みたいなものではないだろうか。

酒を呑んでいる時分は、日がな酒しか呑んでいなかったので。生命の維持のために食、そのための勤労、睡眠などの時間を除いて、およそ趣味と言えるものは無かった。というか、それ以外の時間は、ほとんどずっと呑んでいたから。

ところが。

いざ酒を断ってしまうと、ポッカリとシラフの頭で向き合うことになる、膨大な暇。退屈の連打。

うわあ、絶望的に暇。何をしていいのかわからぬ時間の応酬。これは酒でも呑まなければやってられませんなぁ。なんて言ってまた呑み、時を飛ばし、記憶も飛ばし、となれば楽なのだが、酒を断ってしまうとそうもいかない。

向き合うことになる。底冷えするような退屈と。

多少なりとも頭がパッパラパーになっていれば、そこまで深刻に感じないのかもしれぬが、やはりそこはシラフ。真剣にこの膨大な時間。人生の余白について考えてしまう。そうなると、もう趣味のひとつでも見つけないと、というか、なにかしら暇つぶしにやっているとそれが趣味みたいな格好に見えてくる。逆に言うと、何かしら暇つぶしにやることもなく、ただ漫然と退屈の応酬にレスポンスできるように作られていない、人間は。下手したら生物は。

下手の横好き。

らっきょの素揚げ。

可愛らしげなマルチーズ。

ひとつ嵌まれば、次から次へと、不思議なもので興味関心というのはゼロの状態ではまったく増えない。それなのに、1になった瞬間、世界、今まで見ていたこの変わり映えのしない世界の、色んなことが興味関心のネタに見えてくる。世の中、こんなことを「趣味」にして生活している人がいるのか。ちょっと待てよ。これは面白そうだから、”きっとこいつを趣味にしているやつがいるに違いない”。酔い呆けた頭で、立ち呑み屋を徘徊するだけでは見えてこなかった世界が、まるで無限に、多元宇宙のごとく広がっていた。

いざ、やってみると、どの趣味も奥深く、いわゆる「沼」という言葉がピタリと当てはまるものばかりで。そのどれもが「沼」であり同時に「道」でもある。探求していくポテンシャル、余白に満ち溢れている。

つまり。

趣味はひとつ持てば良い、などと訳知り顔で言うやつはわかっていない。

男一匹。ひとつでも趣味と呼べるものができてしまったら、後の祭り。崩し的に多趣味の沼めぐり。一億総世田谷ガレージおじさんになっていく。

そうでなければ無趣味。

日々の生活が心底多忙すぎて、生命の維持以上の活動にエネルギーを割けないとか、熱心な経済 or 政治活動や大いなる陰謀との闘いで暇などこれっぽちもないとか(まあ、それもそれで暇との対峙という意味では趣味なのでは?と思うが)、そもそも退屈を感じない性質だ、とか、そういうのはあるだろう。

多趣味。さもなくば無趣味。

人は趣味の多言宇宙を彷徨うように設計されているのだ。

そうして本日。

1億人はいるであろう世田谷ガレージオジサンの末席に座する私は、「お香」という古くからある深い沼に戦慄デビューしてしまった。

陶器で出来た洒落た香炉、金木犀、白檀、沈香、柘榴、堀川などの線香、巻香を買い集め、自室で和モノの香を焚き上げながら激しく”チルい”モードで、この文章を書いている。ぴーす。

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怒れる人たち

怒りと恐れについて 怒りをエネルギーとして何かを成し遂げるというのはあると思うが、大抵の場合、怒りというのは瞬発的な感情であって、怒り単体であればそこまで長続きしないのではないだろうか。怒りの発生を紐解けば、純粋に怒りという感情がゼロから産まれることは少ない、というかほとんどなく、何か別の感情に対しての反応的感情として怒りは産まれる。その代表的な産みの親はやはり恐れであろう。 恐れから産まれる怒りによって、怒りの感情は長続きするように錯覚する。その実それは、怒りではなく、裏側でくすぶっている恐れの感情である。恨み、つらみ、妬み、嫉み、僻み。こういった負の、マイナスのフィーリング。生き物としての「私を傷つけるな」という強い生存的な防御欲求、そういうものが怒りには込められている。とはいえ、怒りを日常的にあらわにしている人はそれだけでアンガーマネジメントができていないといわれ、人として評価されない現代社会。怒りの感情は長続きしないので、イラッとしたら6秒待ちましょう。などとほざく人たちもいるけれど、ぼおっと6秒も待っている間に苛立ちはブースト。殺意にまで発展する可能性もある。怒りに対処

地に足をつけて浮世ばなれ。

山へ引きこもらず、海辺に小屋を建てず 街の中で、俗に浸かりながら、浮世を離れる。 親しげに近隣住民と社交をしながらも、世間からは身を置く。 一般的な、世間的な、ことから、意識的に距離をとりつつ、自分の設計に応じた道を犀の角ののようにただ一人歩む。それでも、ひとりぼっちは寂しいから、友だちを作り、一緒に飯を食ったり酒を飲んだりする。ひとりで歩む道の傍らには草木が生えているし、別の道を歩む人も見える。死ぬまでの道すがら、たまたま隣接する道路で一緒に歩むこともある。けれど、道はそれぞれ一人分しか用意されていないので、次の曲がり角では別れることだってある。自分の道を歩く。 けれど、わき目も振らずに前だけを一点に見つめて、集中して歩くことはしない。おおいにわき目をする。道すがらの草木にも目をやる。風の移り変わりも感じる。他所の人の道もつぶさに観察する。たまには休み、後ろに戻って、落とし物を探したりもする。雲の上の仙人ではないから、身体は世俗に生きつつも、心は浮世離れしている。浮世とは世間のことであり、世間とは多くの人が歩んでいると思い込んでいる幻の国道のようなものだから。そんなものは幻であ

スマホを眠らせ、思いつきを増やす

100の思いつきのうち、実際に行動できるのは5個くらい。そのうち続けられるのは3つくらい。ものになるのは1つくらい。もちろん運や遺伝的な設計や現在の環境にもよる。 「人生は趣味」をモットーとする、毎日が余生派におすすめするのはやはり、おもしろアンテナを磨き込み受信感度を高めておくこと。一年で300くらい面白そうなモノを思いついていれば、3年くらいで3つくらいは、ものになる趣味が続いている体感。割り戻すとだいたい1年、1つずつという感じだととてもうまくいっている。理想的。 そして思いつきというものは無からは決して産まれないので、その10倍くらいのインプットが必要、インプットといっても、これは本や映画などいわゆるマテリアルからのものだけではなく、新しい人と友達になったり、おしゃべりしたり、知らない町を歩いてみたりというインプットも含まれる、というかそっちのほうが日頃の暮らしの中でインプットとしての割合は大きい。 そしてなぜ、こんなことをする必要があるのかというと、暇だから。 おそらく人生で一番時間的にはハードであろう幼児の子育てをしている現在ですら、やはり暇。まあいまこのときはやっぱ

身体を忘れた生き物

ひっさびさに瞑想をキメた。5分くらいだけど。 喫煙と同じくらいの時間と手軽さで良い感じにリラックス。 なんとなく、うまかったな、今回。グッドトリップというか。 脳すっきりねんじゃー。 本日は終戦記念日。 ノー・ウォー。 ずっと終戦記念日はこの日のままであってほしい。 総合格闘技流トレーニングがかなり効いている。 身体がちゃんと反応して適応し、前回できなかった動きができるようになっているの、素晴らしい。ギター、書道と同じように上達、身体と頭の新回路がメキメキと作られている感じがする。これ、きっと語学も同じなんだろうな。身体的な語学感覚というか。語学神経ともいうべきやつがあるとおもう。音楽神経、運動神経、語学神経みたいな。普段の日常生活では意識的に使用しない身体の動きを脳からの指令で動かすようなシリーズ、俺は語学もどちらかというとこっちな気がしている。発音だとかリスニングだとか。間合いの取り方だとか。座学というよりは知識・理屈を踏まえた上で脳の新回路を形成するプロセス。たぶん絵画神経もありそう。 と、書いていて思ったが、あらゆること、というのは言い過ぎかもしれないけれ