調子が悪くてあたりまえ

ずっと、調子悪い。

30代の後半に乗り上がってからずっと、なんとなく調子悪い。

運動、食生活、腸活、果ては断酒まで敢行して2年。

慢性的な下痢やむくみ、体重の増加など、酒による体調不良は概ね解消したが、自立神経系の乱れによる諸症状はずっと続いているので、もう、ずっとなんとなく調子悪い。

一日の中でも良いときと悪い時があり、というか、気圧や天候にも左右されるので、丸一日ずっと元気印、やっぴ!みたいな日は365日を通して、殆ど無い。

なんとなく、デフォルトどっかが調子悪い。

加えて今日のような、まさに梅雨日和みたいな日は、さらに調子が悪い。

雨も降ったり止んだり、とにかく湿度が身体の隅々まで浸潤していく感じ。梅雨のない国で生まれ育ったせいで、何十年経っても身体が慣れない。

と思って今。部屋、エアコンでDRYにしたら、速攻でだいぶ調子が良い。

突然、頭がクリアになる感じ。寝間着のTシャーツも脱ぎ捨て、ランニング一丁。キヨシ・ヤマシタSTYLEで背筋もピンと伸びる感じ。なんとなく調子が良い。

思えば、今日は午前中から溜まっていた柄シャツをエマールで手洗いし、干すことができたし、ずっと「やらなくちゃならないが…」と放置していた、Ubuntuのアップグレードも、Claude3.5 Sonnetの強力な支援により、迷うことなく終えることができた。そもそも、昨日の月曜日中に今週の殆どの仕事を終えてしまっている。これは、だいぶ調子が良い。

ブログやニュースレターなど、インターネットに自らのお気持ちや日々の戯言を文字で書き連ねていくという、恥ずかしげのある行為も、久しぶりにいい感じのプラットフォームに出会い、こうして書いている。これもなんとなく、調子が良い。良い。良いぞ。調子。

午後、というか夕方少し前くらいからどんどん調子悪くなっていくのが日常茶飯事なのだけど、こうして快適な湿度・温度のお部屋で駄文を書き連ねていると、徐々に調子が回復していく。頭の中のゴミやノイズが吐き出されていくような感じ。これをローカルで再現できないのは何故なのか。日記とブログ(をはじめとするインターネットへの文章投稿)は何かが決定的に異なっている。

紙の日記ほど内省するわけでもなく、秘密めいたことを書くわけではないのに、手が、指が、キーボードを押し触るたびに、どんどん、どうでも良いことが吐き捨てられていく。その度に、心も身体も少しずつ調子が良くなっていく。セラピー。これはセラピー。戯言を吐きつらねること。王様の耳はロバ。ネットワークに繋がれた人類はもはや、ネットに脳内のゴミを放流しなくては、調子を崩してしまうのではないのだろうか。

Read more

怒れる人たち

怒りと恐れについて 怒りをエネルギーとして何かを成し遂げるというのはあると思うが、大抵の場合、怒りというのは瞬発的な感情であって、怒り単体であればそこまで長続きしないのではないだろうか。怒りの発生を紐解けば、純粋に怒りという感情がゼロから産まれることは少ない、というかほとんどなく、何か別の感情に対しての反応的感情として怒りは産まれる。その代表的な産みの親はやはり恐れであろう。 恐れから産まれる怒りによって、怒りの感情は長続きするように錯覚する。その実それは、怒りではなく、裏側でくすぶっている恐れの感情である。恨み、つらみ、妬み、嫉み、僻み。こういった負の、マイナスのフィーリング。生き物としての「私を傷つけるな」という強い生存的な防御欲求、そういうものが怒りには込められている。とはいえ、怒りを日常的にあらわにしている人はそれだけでアンガーマネジメントができていないといわれ、人として評価されない現代社会。怒りの感情は長続きしないので、イラッとしたら6秒待ちましょう。などとほざく人たちもいるけれど、ぼおっと6秒も待っている間に苛立ちはブースト。殺意にまで発展する可能性もある。怒りに対処

地に足をつけて浮世ばなれ。

山へ引きこもらず、海辺に小屋を建てず 街の中で、俗に浸かりながら、浮世を離れる。 親しげに近隣住民と社交をしながらも、世間からは身を置く。 一般的な、世間的な、ことから、意識的に距離をとりつつ、自分の設計に応じた道を犀の角ののようにただ一人歩む。それでも、ひとりぼっちは寂しいから、友だちを作り、一緒に飯を食ったり酒を飲んだりする。ひとりで歩む道の傍らには草木が生えているし、別の道を歩む人も見える。死ぬまでの道すがら、たまたま隣接する道路で一緒に歩むこともある。けれど、道はそれぞれ一人分しか用意されていないので、次の曲がり角では別れることだってある。自分の道を歩く。 けれど、わき目も振らずに前だけを一点に見つめて、集中して歩くことはしない。おおいにわき目をする。道すがらの草木にも目をやる。風の移り変わりも感じる。他所の人の道もつぶさに観察する。たまには休み、後ろに戻って、落とし物を探したりもする。雲の上の仙人ではないから、身体は世俗に生きつつも、心は浮世離れしている。浮世とは世間のことであり、世間とは多くの人が歩んでいると思い込んでいる幻の国道のようなものだから。そんなものは幻であ

スマホを眠らせ、思いつきを増やす

100の思いつきのうち、実際に行動できるのは5個くらい。そのうち続けられるのは3つくらい。ものになるのは1つくらい。もちろん運や遺伝的な設計や現在の環境にもよる。 「人生は趣味」をモットーとする、毎日が余生派におすすめするのはやはり、おもしろアンテナを磨き込み受信感度を高めておくこと。一年で300くらい面白そうなモノを思いついていれば、3年くらいで3つくらいは、ものになる趣味が続いている体感。割り戻すとだいたい1年、1つずつという感じだととてもうまくいっている。理想的。 そして思いつきというものは無からは決して産まれないので、その10倍くらいのインプットが必要、インプットといっても、これは本や映画などいわゆるマテリアルからのものだけではなく、新しい人と友達になったり、おしゃべりしたり、知らない町を歩いてみたりというインプットも含まれる、というかそっちのほうが日頃の暮らしの中でインプットとしての割合は大きい。 そしてなぜ、こんなことをする必要があるのかというと、暇だから。 おそらく人生で一番時間的にはハードであろう幼児の子育てをしている現在ですら、やはり暇。まあいまこのときはやっぱ

身体を忘れた生き物

ひっさびさに瞑想をキメた。5分くらいだけど。 喫煙と同じくらいの時間と手軽さで良い感じにリラックス。 なんとなく、うまかったな、今回。グッドトリップというか。 脳すっきりねんじゃー。 本日は終戦記念日。 ノー・ウォー。 ずっと終戦記念日はこの日のままであってほしい。 総合格闘技流トレーニングがかなり効いている。 身体がちゃんと反応して適応し、前回できなかった動きができるようになっているの、素晴らしい。ギター、書道と同じように上達、身体と頭の新回路がメキメキと作られている感じがする。これ、きっと語学も同じなんだろうな。身体的な語学感覚というか。語学神経ともいうべきやつがあるとおもう。音楽神経、運動神経、語学神経みたいな。普段の日常生活では意識的に使用しない身体の動きを脳からの指令で動かすようなシリーズ、俺は語学もどちらかというとこっちな気がしている。発音だとかリスニングだとか。間合いの取り方だとか。座学というよりは知識・理屈を踏まえた上で脳の新回路を形成するプロセス。たぶん絵画神経もありそう。 と、書いていて思ったが、あらゆること、というのは言い過ぎかもしれないけれ