地に足をつけて浮世ばなれ。

山へ引きこもらず、海辺に小屋を建てず
街の中で、俗に浸かりながら、浮世を離れる。
親しげに近隣住民と社交をしながらも、世間からは身を置く。

一般的な、世間的な、ことから、意識的に距離をとりつつ、自分の設計に応じた道を犀の角ののようにただ一人歩む。それでも、ひとりぼっちは寂しいから、友だちを作り、一緒に飯を食ったり酒を飲んだりする。ひとりで歩む道の傍らには草木が生えているし、別の道を歩む人も見える。死ぬまでの道すがら、たまたま隣接する道路で一緒に歩むこともある。けれど、道はそれぞれ一人分しか用意されていないので、次の曲がり角では別れることだってある。自分の道を歩く。

けれど、わき目も振らずに前だけを一点に見つめて、集中して歩くことはしない。おおいにわき目をする。道すがらの草木にも目をやる。風の移り変わりも感じる。他所の人の道もつぶさに観察する。たまには休み、後ろに戻って、落とし物を探したりもする。雲の上の仙人ではないから、身体は世俗に生きつつも、心は浮世離れしている。浮世とは世間のことであり、世間とは多くの人が歩んでいると思い込んでいる幻の国道のようなものだから。そんなものは幻であり存在しない。

心が浮世を離れると、自然と身体も浮世を離れていく。これは突然天上界に呼び出されるとかではなく、なんとなく日々の動き、行動、そういうものも幻の国道の影響を受けなくなっていく。どうでもよくなっていく。すべてに達観しているということではなく、自分の道を歩いている。達観というのはつまり安全な城からの眺め。そこからは道ばたの蟻や空き缶などが見えない。

歩くこと。自分の道を歩くこと。

地に足をつけながら、浮世を少しだけ離れていくこと。

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怒れる人たち

怒りと恐れについて 怒りをエネルギーとして何かを成し遂げるというのはあると思うが、大抵の場合、怒りというのは瞬発的な感情であって、怒り単体であればそこまで長続きしないのではないだろうか。怒りの発生を紐解けば、純粋に怒りという感情がゼロから産まれることは少ない、というかほとんどなく、何か別の感情に対しての反応的感情として怒りは産まれる。その代表的な産みの親はやはり恐れであろう。 恐れから産まれる怒りによって、怒りの感情は長続きするように錯覚する。その実それは、怒りではなく、裏側でくすぶっている恐れの感情である。恨み、つらみ、妬み、嫉み、僻み。こういった負の、マイナスのフィーリング。生き物としての「私を傷つけるな」という強い生存的な防御欲求、そういうものが怒りには込められている。とはいえ、怒りを日常的にあらわにしている人はそれだけでアンガーマネジメントができていないといわれ、人として評価されない現代社会。怒りの感情は長続きしないので、イラッとしたら6秒待ちましょう。などとほざく人たちもいるけれど、ぼおっと6秒も待っている間に苛立ちはブースト。殺意にまで発展する可能性もある。怒りに対処

スマホを眠らせ、思いつきを増やす

100の思いつきのうち、実際に行動できるのは5個くらい。そのうち続けられるのは3つくらい。ものになるのは1つくらい。もちろん運や遺伝的な設計や現在の環境にもよる。 「人生は趣味」をモットーとする、毎日が余生派におすすめするのはやはり、おもしろアンテナを磨き込み受信感度を高めておくこと。一年で300くらい面白そうなモノを思いついていれば、3年くらいで3つくらいは、ものになる趣味が続いている体感。割り戻すとだいたい1年、1つずつという感じだととてもうまくいっている。理想的。 そして思いつきというものは無からは決して産まれないので、その10倍くらいのインプットが必要、インプットといっても、これは本や映画などいわゆるマテリアルからのものだけではなく、新しい人と友達になったり、おしゃべりしたり、知らない町を歩いてみたりというインプットも含まれる、というかそっちのほうが日頃の暮らしの中でインプットとしての割合は大きい。 そしてなぜ、こんなことをする必要があるのかというと、暇だから。 おそらく人生で一番時間的にはハードであろう幼児の子育てをしている現在ですら、やはり暇。まあいまこのときはやっぱ

身体を忘れた生き物

ひっさびさに瞑想をキメた。5分くらいだけど。 喫煙と同じくらいの時間と手軽さで良い感じにリラックス。 なんとなく、うまかったな、今回。グッドトリップというか。 脳すっきりねんじゃー。 本日は終戦記念日。 ノー・ウォー。 ずっと終戦記念日はこの日のままであってほしい。 総合格闘技流トレーニングがかなり効いている。 身体がちゃんと反応して適応し、前回できなかった動きができるようになっているの、素晴らしい。ギター、書道と同じように上達、身体と頭の新回路がメキメキと作られている感じがする。これ、きっと語学も同じなんだろうな。身体的な語学感覚というか。語学神経ともいうべきやつがあるとおもう。音楽神経、運動神経、語学神経みたいな。普段の日常生活では意識的に使用しない身体の動きを脳からの指令で動かすようなシリーズ、俺は語学もどちらかというとこっちな気がしている。発音だとかリスニングだとか。間合いの取り方だとか。座学というよりは知識・理屈を踏まえた上で脳の新回路を形成するプロセス。たぶん絵画神経もありそう。 と、書いていて思ったが、あらゆること、というのは言い過ぎかもしれないけれ

大人は思い出を食べて生きている

カラオケを置かず、生音と大量の歌謡曲レコードを準備して酒場をやっている。 歌いたい人というのは一定いるものだが、それと同じくらい歌いたくない人もいる。 いや、歌いたくないというよりは人前でマイクを通してソロで歌うことに抵抗がある人もいる。そんな人たちも、じゃあまったく音楽を嗜まないかというと、音楽酒場に来ている以上そういうことは、あまりない。 レコードの良い質の音源を爆音でかけることで、みんなあの頃の思い出に浸り、小さな声で口ずさむ、身体を揺らすなどして愉しんでいる。音楽はやはり「癒やし」であることが、こういった店を始めてわかった。そして、さらにいうと、音楽の効果はそれはあるのだろうけど、思い出。思い出に浸る。思い出を思い返しつまむ。思い出を食む。この行為におそらく大きな癒やしがあるのではないだろうか。と、お客さんの様子を見ていると思う。もう二度と帰ってこない思い出は記憶の中で死んでしまったように見えても、しっかりと脳のどこかで断片が生きている。それぞれのストーリーは切り離され、その断片ですら変質し、そもそもの事実と大きく異なった姿形になっていたとしても、その思い出をフラッシ